2013年6月18日

ぽつねん


最近、本業の方は新規の相談と受任を控えさせていただき、手持ち事件の処理に勤しんでいるのですが、それとは別に、弁護士会の委員会活動や法人後見事業の方も忙しく、今月の各週末にはほぼ仕事が入っており、週末もゆっくりできていないのが現状です。

そんな6月の土曜日、久しぶりに北九州にお出かけしました。小林賢太郎さんのソロコント「POTSUNEN」を観に行ってきましたよ。

しかし、今回は、これを観に行ったことの感想ではありません。

 

「ポツネン」を観に行く前日の金曜日の夜は、山口市湯田で弁護士会の会合があり、会合の後は懇親会で、この日は湯田のビジネスホテルにお泊り。翌日の土曜日の朝には少しお酒が残っている感じがしたので、昼食は身体にやさしく、出来るだけ野菜たっぷりの食事をと、北九州に向かう前に、山口市内にある‘ベジタブル喫茶’「Toy Toy」でお昼ご飯をいただきました。

この「Toy Toy」さん、自然派の食材を活かした自然派の料理が‘売り’のようですが、その辺の情報にはあんまり私は詳しくなく、正確でないかもしれないので、料理の内容には踏み込みません(この日いただいたランチはもっちりとした玄米ご飯を始め、おかずもどれも美味しかったです。)。お店の雰囲気とか、置いてある本などがどれも私の好みにぴったりで、とても居心地のよいお店なのです。ちなみに、店主が猫がお好きなのか、猫関係の書籍がたくさん置いてありました。

そんな数ある書籍の中、太宰治の『人間失格』にも並ぶ文学青年たちのバイブル(あくまで私見)ともいえる梶井基次郎の『檸檬』が置いてあるではないですか。この短編小説、かなり以前に読んだことはあるものの、「八百屋でふと買ってしまった檸檬を本屋に積み重ねられた本たちの上にそっと置いて帰る」というあらすじだけしか覚えていなかったことから、ランチが届くまでの間、パラパラと読み返してみることにしました。

 

「えたいの知れない不吉な塊が私の心を終始圧(おさ)えつけていた。」との一文から始まるこの掌編は、以降で、「以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。」と、その鬱々とした主人公の独白が綴られます。そして、物語が肝心の‘檸檬’へと向かう話の転換点の、この小説が始まって3ページ目のところで(ちょうど、ランチのスープが私のテーブルに置かれた時に)、「ぽつねん」という一語が私の目に飛び込んで来たのでした。

正確にその部分を引用すると、こうです。

「ある朝――その頃私は甲の友達から乙の友達へという風に友達の下宿を転々として暮らしていたのだが――友達が学校へ出てしまったあとの空虚な空気のなかにぽつねんと一人取残された。」

そして、主人公は、「私はまた其処から彷徨い出なければならなかった。」と追い立てられるように街から街を歩いて、以前からの一等お気に入りのお店で‘檸檬’を手に入れることになるのですが、この主人公が、空虚な空気の中に一人取残された「ぽつねん」という心情と、小林賢太郎の「ポツネン」公演にただよう詩情とがぴったり重なり合い、小林賢太郎は、「ポツネン」というお題目を梶井基次郎の「檸檬」から取ったに違いない!と、確信めいた直観(ひらめき?思いつき?)を感じたのでした。

 

さて、この事の真偽はさておき(今のところ、小林賢太郎が梶井基次郎の『檸檬』を愛読していたとの事実は掴んでいません。CMで『人間失格』を読んでいたシーンがあったそうですが。)、私がいたく感動したのは、「POTSUNEN」を観に行くまさにその直前に、私がたまたま手にした本の中に、「ぽつねん」という言葉を見い出したということなのです。

もしも、この日、私が、このお店に入らなければ、『檸檬』を手に取らなければ、改めて「檸檬」という掌編を読み返そうと思わなければ・・・。そう考えると、無数の偶然が重なりあって、この日、私は「ぽつねん」という一言に巡り合ったといえるのではないでしょうか。そして、私が「ぽつねん」という言葉を見つけ出したことは、もはや単なる偶然とは言えず、何かの縁、「運命」であったのではないかとすら思えるのです。大げさに言うと、ここに何らかの宇宙―神―の意思が働いているのではないかと・・・。いや、そこまで言うと、パラノイア(偏執狂)か何かじゃないかと疑われてしまいかねませんね(笑)

まあ、そういう、壮大な?話がしたい訳ではなく、何かこういった小さな偶然に出会ったとき、無性に幸せというか幸福感を感じません?!という(非常に個人的な小さい)お話なのです。

 

人間(ひと)は、無数の大小さまざまな偶然との出会いの中で生きているのだと思います。その偶然に出会って、喜んだり、悲しんだり、怒ったり、笑ったりするのでしょう。その積み重ねが「生きていくこと」だと言い換えることができるかもしれません。その偶然の中の、何に喜び、何に悲しむかがその人を定義し、その人を形作ると言っても過言ではなく、そう考えると、「起きたことの全てが正しい」と、思わず、大した考えもなく無批判に全てを肯定してしまいたくなることもあります。とはいえ、世界で現実に起こっていることの全てを私が知っている訳でもなく、人ひとりの一生の全てを知り尽くした訳でもないので、そこまで人生達観できないですし、それ以上に、複雑でやっかいでどうしようもなく残酷で無情なのが人の世ですから、<無自覚>や<無批判>に全てを肯定することなく、ただただ、起きた「偶然」に驚き、心(喜怒哀楽)動かすことができれば、それが生きていることなのかなあ、と考えたりもします。

おっと、非常にパーソナルな小さな話から、また、思いもかけない大きな話になってしまいそうですが、ここは、「小さな偶然」への驚きの話で満足しきれない(「POTSUNEN」と「ぽつねん」繋がりの話でやめときゃあいいんですがね)、私の悪い癖と、ご容赦ください。「あんたの個人的な体験とかそれに対する感想とか話されてもねえ」という私の中にあるブログ一般に対する批判的な気持ちからか、嫌でも、無理でも、どうにか個人のパーソナルな体験の紹介や感想だけには留まらず、そこから何か一般化した教訓めいたお話を導いて終わらせようという、そんな浅はかな考えから出た、こじつけめいた結論に他なりません。

 

そのことに何ら特別な意味がある訳ではないのでしょうが、自分でもよく分からない「偶然」に出会ったことから、私としては、その「驚き」をどうしても他人に伝えたかっただけなのですが、もしかしたら、その「偶然」とか「驚き」とか、それって、「生きるってことそのもの」なのかも・・・なんて考えたり、考えなかったりした6月のとある週末でした。やっぱりパラノイアかなあ・・・。


 

 
追記:土曜日の晩、北九州で小林賢太郎の「ぽつねん」を観た後、翌日曜日の朝からは、新山口駅前のホテルで、岡山の弁護士竹内俊一先生を交えて、今年の11月9日(土)に開催を予定している「権利擁護支援フォーラムin萩」の打合せでした。このフォーラム開催のご案内はまた改めてこのブログで。

その帰りに山口市のブック・オフで『檸檬』を購入(105円)。今回の引用はこれに基づいています。
が、ネットの青空文庫でも、『檸檬』、ありました・・・。





追記2:梶井基次郎は、最初の作品集『檸檬』を刊行した翌年、31歳の若さで肺結核により没したそうです。

    ちなみに小林賢太郎は私と同じ4月生まれの私より一つ年下で、今年、ジョン・レノンが没した年齢の40歳。ちなみに松田優作とカフカが亡くなったのも40歳。

 

追記3:「パラノイア」:自らを特殊な人間であると信じたり、ある人から強く愛されている、隣人に攻撃を受けているなどといったひとつの異常な妄想に囚われる精神病の一型。強い妄想を抱いている、という点以外では人格や職業能力面において常人と変わらない。偏執病、妄想症。